066 私と『仏教看護の実際』

 
フラクタルのお手てのシワとシワを合わせて幸せ担当、のぞみです。
 
さて、前回(私とキャリア)の続きのようなそうじゃないような?前回の投稿は、なんで突然『仏教看護の実際』って本を読み始めたかの説明だったような……そうじゃなかったような……、って感じだったかと思うので、今回は内容に触れたいと思います。
(……私の語彙力で対処が可能なら)
 
 
ところで私の友だちのお坊さんは飲食店やってるんですけど、これがまたなんでかというと『仏教はお葬式のものだと思われてる』『お葬式以外で広くひとと関わるチャンスがない』って理由だそうです。
言われてみればお坊さんのお仕事って言うなれば仏教の布教なのに、普通に生活してると葬儀や法要くらいでしか直接会うことってない気がする。
好きでお寺巡りとかをしてるひとも、なんだかんだいってお寺のあの静謐な雰囲気が好きだったり、荘厳な仏像をお参りするのが好きだったり、御朱印をもらいに行くことが目的で、わざわざお坊さんに会って話を聞いたりはしないよなぁ。
 
なのでまぁ、布教活動なのかはさておき、カウンターでお話をしてるマスター(お坊さん)のお店は、現代版のお寺なんだろうね。ご本尊もかけてあるし。
 
突然ですが仏教の教えってよく般若心経の260何文字に収まってるって言われてるじゃないですか。
(上記マスターは真宗大谷派のひとなので般若心経唱えないけどね)
で、それって『空』の教えで、雑に一言でいうと(……怒られそうだ)『執着を捨てろ』って言ってるんですよね。
 
火葬でも土葬でも水葬でも鳥葬でもなんでもそうだけど、基本的には有機体は死ぬと長短あるけどどうにかこうにかして大地に還るから、まぁ、ひとの死とか、お葬式向きの思想ではあるよね。
昔はお寺が戸籍の管理を担ってたから、生死がお寺のお手付きだったって歴史的背景も、ある。
 
 
今回『仏教看護の実際』を読んで思ったのは、もっと非科学的な、スピリチュアルなことについても意識して学んでいかなくちゃいけないと思った。
「なぜ生まれてきたのか」や「死んだらどうなるのか」って、いくら勉強したって“正解”はないし、言われた我々(医療介護福祉職)も、きっと思い、迷い、悩む。答えがないから。だからこういう、答えのない問いの拠り所は必要なのかも、と思いました。確かにこれは科学より非科学、宗教の得意な分野だよね。
 
って、既に結論みたいになっちゃったけど、取り敢えずまずはこれ。
 
 
言われてみればキリスト教国家で生まれて発展していった看護学。英語を日本語に訳してるからどうもピンと来ないのかな?と思うこともあった気がする。
(ちゃんと理論家の本を読んで勉強してるわけじゃないからなんとも言えない……!)
 
そもそも仏教も輸入してきたものだから果たして土着のものかと言われたら怪しいんですけど、まぁ生活には即してたのは間違いない。日本的な価値観や考え方のヒントには、確かになりそう。
 
ちなみに仏教看護の視点で大切になってくるのは、そのひとの『苦』
(※ざっくりです。超ざっくり)
 
“四苦八苦”が仏教用語だってことは恐らく皆さんご存じかと思うんですけど、この四苦(生まれてくること、老いていくこと、病にかかること、死ぬこと)八苦(愛するひとと別れること、憎んでるひとと会うこと、求めることが得られないこと、肉体と精神が思うようにならないこと)って、本当、看護の全てのステージに当てはまってる。
疾患を持ったまま生活をしていくそのひと自身、っていうところでは在宅の患者さん?利用者さん?とも通じてるところがあるかもなぁ。と思って読んでました。
本の中では具体的な事例を紹介しながら、看護展開(情報収集→アセスメント→実施、かな。具体的な計画立案と、実施後の評価まではなかった)をしていました。
 
すごく素敵な言葉があったので是非紹介させてください。
 
『看護者に求められる基本姿勢の一つとして、看護者自身が自己を見つめ、自己に気づくことの大切さを挙げたいと思います。』
『人は自己の所有したものは常住ではないと知りながらも、この世のものは変滅すべきものであるとわかっていながらも、わがものであると執着したもののたまに憂い苦しむ存在です。このような存在であることを素直に肯定したうえで、看護という行為、人間関係を通じて、この世では自己こそ自分の主であることを自覚し、自身の身をととのえて、苦しみから逃れ、いろいろな幸せを共に手に入れるための努力をしたいものです。』
 
だって。
たぶんどんな看護の教科書にも書いてないんじゃないかな。自分を大切に。
 
葬式仏教のイメージ、払拭できたら良いよね。こうやって看護にも使えるの、良いよね。